昭和42年03月28日 夜の御理解



 今朝久留米の松本さんが、あまりに桜が見事に咲きましたから、親先生に見て頂きたいと言うてから、あんな大きな枝を持ってお供えして下さった。あんなに桜が咲いておろうとは思わなかった。まあこれなんかも、神様のご都合にはいつの場合にも恐れ入るんですけれども。本当に真心というものには無駄がないなと言うことですね。その桜もさることながら。何か私霊様の前にお供えしたらどうかと、私は豊美に申しました。
 そこでそのいろいろあれこれと花瓶を探したらしいんです。この長い花瓶はお供えを頂いたっきり、一回も使うたことのない花瓶でした。皆さんもご覧になったことはなかったでしょう。もう何にも合わんのですよ。またどこにでも調和しないのですね不思議に。だから、新しいものを頂いたままで、その置いてあったんです。ところが他のどれよりも、今日はこれが一番合うと。
 ちょうど霊神様の前に、あの花瓶は合ってるでしょうが。あんなこともですね、もう本当に合楽のこのお広前のために、ご準備下さっておったんだなぁと言うような感じが致しますですね。天衣無縫ということを言うが、例えば私の後ろに使うておった、あの衝立なんかでも、本当にここのお広前のちょうどお賽銭箱の向こうの衝立に、ちょうど作るなら恐らくあの形に作るだろうと思うぐらいに、ぴったり来てるでしょうが。
 もうこれが一事が万事そうですね。これをまぁ天衣無縫という訳なんですよ。まぁ余談になりましたけれどもね。その桜の花を頂いて、豊美があぁして入れましたらすぐそのあとに、今度原さんが仲人されましてから、姪のとよ子さんが今日結婚式でございました。と言うてもその、養子をお迎えたんです。随分あっちこっちから話があったりしましたけれども。なかなか出来なかったんですけどもね。
 昔からその小糠三合持ってりゃ、養子に行くなと言われる位ですからね。所がもう本当にそれはもう勿体ない。こりゃ本当じゃあるだろうかという様に、勿体ない所から勿体ない条件で、養子に来てくれると言う話が纏まったんですよね。ほらもうあらゆる道具は言うに及ばず自家用車まで持って来とります。今日その自家用車で新婚旅行に出ましたんですけどもね。本当にこちらには本当に何にもないところですよ。
 神様のやっぱりあのおかげであると言わにゃおられないんですけども。今朝その式前に、原さんが花嫁後を連れてから、ここへお礼参拝してまいりました。その時に私が神様にお願いさせて頂いておりましたら、霊様の前にお供え致しましたばっかりの、桜の花を頂くんですよね。それで私がとよ子さん、今日のおかげはね。本当にあの皆さんもご承知の様にあんなにスタイルもよし、綺麗でもありますから。
 もう花嫁後ぶりの素晴らしさ。本当にあの最高に綺麗だったですがね。だから今日のねこのおかげはちょうど言うならば、霊神様の前にお供えしてある桜のようなものだと、私は申しました。というてほんなら桜の花のようなおかげというものをね、誰でもが願っておるんだと。誰でもが求めておる。本当に華やかな賑やかなおかげを頂きたいと願わん者は、誰ひとりとてありませんですね。
 為にはだから私はやっぱり本当に、少しは華やかな信心しなけりゃ駄目だと思う。人の真似の出来んぐらいな信心せにゃつまらんと思うのです。もう私は思うんですけども、私はまぁだこの御用と言ったような事についてでも、私はもうとにかく言わない方ですけれども。御用すりゃ助かる御用すりゃ助かると言うような教え方を、私共は受けて参りまして本当にそうだと思うて御用もして参りましたけれども。
 実はあんまりたいした助かりはなかったです。ですから御用すれば助かるというのではなくてですね。私はとにかくおかげを頂かなければいけないという事ですまず。ところが椛目の人達はですね。おかげを頂いても次に、華やかな御用をしきらんですね椛目の人達は。私が言わんからでしょうね一つは。おかげを頂いてもですね。いわゆるそれこそ華々しいというか華やかな。
 私がさあおかげも頂かんとに御用しろ、御用しろと言わんです。だからまずおかげを頂かなければ。そして御用させて貰わなければおられんという、心で御用させて貰わなければと言う程度には言うけれどもです。私は今日の御理解から頂くならば華やかなおかげを頂きたいと思うならば、まずおかげを頂いたならばです。それこそ華やかなですね御用に立たなければいけないと私は思うです。
 それにおかげを頂きまして、広大なと言いながらですやっぱり当たり前。是では矢張り当たり前のおかげしか頂かれんです。私共はそこん所が誰よりも彼よりも出来ておったんじゃないかと自分でも思います。おかげを受けて本当にその華やかな御用をさして頂いたことです。ですから私は桜の花の様なおかげを、現在私は頂いておるんだと思うんですよ。こりゃ椛目時代からだって同じ事が言えたと思うんですけれども。
 愈々このここの御造営が、御成就になってから考えます時ですたい、とてもとても是は矢張り華やかなおかげであるなぁと。毎日15人、20人の人が今参観に見えます。そんな事も他の教会では例のない事であろうと思います。しかもこの市の知名士の方達ですね。それが話を聞いてはみえるんですけど、私は午後からはもう案内に懸かっている。本当にお茶を出したりするだけでも、大変だと思うくらいにあるんです。
 実にその華やかなもんですけどもですね。今日のとよ子さんの場合も、私はそれを申しました。今日はちょうど霊神様の前にお供えしておる、あの桜のようなものだから。これからはねあの桜の花のようなおかげを、本当に頂き続けるために私が一つの、いつもこりゃ信心の理想としておるところのです。梅の花の信心をしなさい柳の信心をしなさい。梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたいとう。
 椛目の言わば理想郷なんですここが。華やかな桜のようなおかげを頂かせて頂く、その内容がですやはり人の辛抱の出来ないところを辛抱しぬかせて頂くという、梅の花のような信心をしなさい。同時にどういう大風が吹いて参りましてもです、その大風に言わば逆らわないというか、いわゆる風任せになっておる、あのしだれ柳のように素直な素直な心にならせて頂く。
 桜の花の信心の内容にのおかげの内容に、梅の花の信心と柳の素直さの信心が、本当に出来て初めて私は椛目的おかげだという事が、言えるのですよと言うて申しましたあとに私感じたんです。なるほど私共のそういう一つの素養というものがありますから、やはりこう言うおかげを頂いたんですけれどもです。これは言うならばちょうど霊神様の前にお供えしてある、桜の花のようなおかげであると、私は思うのです。
 ですからこれからはですね、私共もです一段と信心辛抱の梅の花の信心の上にです。もういよいよ馬鹿程に素直なしだれ柳のような信心をです。頂いていかなければならんなと言うことを感じます。本当に信心も出来んのに、このようなおかげを頂いてと。このようなおかげと言うのは桜の花のような、華やかなおかげを頂いてそこで内容も無いのにというのがです。私は口だけであってはならない。
 内容も無いのに何が足らんか、まだ信心辛抱が足りんのだ、もっともっと純粋な素直さが足りんのだというところに、焦点を置いて素直さと又はその辛抱と頂きぬかせて頂いてから、一つ桜の花のようなおかげを頂かなければならない。いや桜の花のようなおかげを頂いておるのでありますから、その内容としてその信心がこれからはいよいよ、なさらなければならない。私共椛目の信心頂いておる者の目指しなんです。
 この様なおかげを受けた。桜の花のようなおかげを受けた。だから愈々今まで辛抱のしきらないような事であった事をです、辛抱しぬかなければいけません。それはね歯を食い縛ってというような辛抱じゃいけんのです。辛抱させて頂いておったらはぁ辛抱させて頂いてよかったと、後から喜びが湧く様な辛抱でなからなければいけません。素直な言わば、馬鹿ほどに素直と言う事でも同じことです。
 素直にならせて頂いておる自分が一つも障らない。素直にならせて頂いておる自分が一つも障らない。そういう喜びを感じられるところの素直さでなかならければ、勿論いけませんそういう素直さを目指して、そういう有難いの最後に伴うところの信心辛抱。はぁ今日も本当にもうへとへとだったよう辛抱さして頂いた。けれども辛抱させて頂いて良かったと自分で思える様な信心辛抱でならなければならん事は勿論です。
 そういう信心をこれから椛目の人達は、桜の花の様なおかげを頂いた内容として、頂いていかなければならないということ。同時にですね銘々の上に桜の花のような華やかなおかげを頂きたいと願うならばです。まず御取次ぎを頂いてそれこそ、日々の中におかげを受けなければいけん。そしておかげを頂いたならです人の真似の出来んくらいなです、華やかな一つおかげを頂きなさい。いや華やかな御用をさせて貰いなさい。
 もうとてもあげな御用は出来んと言ったような、ちったですね、人があっち言うごたるおかげを頂かなければ、あっと言うごたる桜の花のおかげにはならんです。これはもう私の過去の信心を、皆さんが見て下されば一番分かるです。例えば私がほんなら親教会の50年祭なら50年祭。もう本当に私は今からというかいつも思うんですけれども。本当に椛目的だなぁと思うんですよね。
 まあ脇から見よると、あげんまでせんでも良かろうごたる、馬鹿んごたるるですもんね考えてみると。お広前いっぱいにですさぁ畳替えも私がしました。八足も私が作りました。米俵で見事な俵を作って米俵を10俵、お供えさせて頂きました。菰包みの酒も一樽お供えさせて頂きました。それに使うお酒は全部もちろんおかげ頂きました。まだまだあの時分のお金で50万から掛りましたからね。
 もう10何年前15年前でしょうか。やはり華やかないわば、私がおかげを頂いておるから華やかなおかげを頂かれるのですよ。ところがおかげは頂いとってもです。ただそこんところを椛目では一つも言わんからです。さあ御用しなさいと言わないから。皆がやはりおかげを頂いておっても、おしるしという様な事では、おかげもやっぱりついおしるしになってくるです。
 だからもし桜の花のようなおかげを頂きたいならばです、私は今日初めてこんなことを申しておりますね。今日は先ほども桜の花の御理解を頂いておるから、皆さん言いよるとですよ私は。おかげ頂いたならです、おかげ頂かんのなら、私は言いやしません。本当におかげと思うたらです。それこそおかげを頂いたと思うたらそれこそ、人の真似の出来ん位につう一杯に華やかなそれこそ。
 これが桜の満開だろうかと言うごたるおかげを頂きなさいませと。必ず、桜の花のようなおかげを頂くでしょう。けどもそれだけでは、いけんのです。それだけではそれこそ散ってしまいます。ですからそういうその内容としてですたい。人の真似の出来ん辛抱させて貰う。しかも辛抱のさせて頂いたその後にはです。辛抱させて頂いてよかったと、自分の心の中に喜びの感じられる様な辛抱。
 本当に馬鹿ほどに素直になっときゃ何にも障らん。そこに障るここに障るすることがない。その素直な自分になっておるということがありがたいという素直さ。そういうものをです、私はいよいよ椛目の信心を頂く人達は、そういう信心を身にっけてお出でなければいけない。そして桜の花の信心がです、それこそ咲きっぱなしのようなおかげに、いよいよ、なっていかなければいけない。そんなふうに思うですね。
   どうぞ。